JOURNAL #02
日記のようなもの
11.12.2025
ここ数ヶ月で溜まったiPhoneのメモたちより。遡るほど日付が古くなる流れにしてみました。

✴︎2025.11 スタジオでついに絵を描きはじめた初日の、なぐり書き
いつも絵は不思議なのだけど、それはわたしであるし、わたしにも理解できない他者でもある。自分の絵をみて、まるで他人の絵を見ているように、ほっと、する。心が柔らかくなる。目まぐるしい都市と日々の隙間から破れて出てきたもののやわらかさに、心が満ちる。

そう、ついについに、スタジオで絵を描き始めた。油を触るのは実に3,4ヶ月ぶり!
一筆ごとにいろんな感情が湧いてきた。うまくいくかな。おー、手は覚えている。いつも通りの筆運びが始まったな。あれ、肌の色っていつもどの色を混ぜていたんだっけ、忘れてる!どきどきしたり、オートマティックに手が動いたり、いきなり開いたなにかに体も感覚も忙しないーー。でも最後に出てきたのは、出てきた絵に自分が癒されるという感情だった。

絵を描くことは日本にいるときはここまで必要なかったことだったかもしれない。今日、絵を描いていてよかった、心底そう思った。日々サバイブな異国の地で、つくることが、わたしにエネルギーをつくる。生き返る。生き生きとしてくる。そう、時間の経過というのは疲労を伴うものだと思うけど、つくることは、ぐるっとそれが逆転する時がある。

絵を描くときは、いつも同じアルバムを擦り切れるみたいに聴いているのだけど、それをまた聴きながら筆をガシガシ動かしていると、急に感情があふれてきた。絵を描くことがわたしには必要で、そのことがうれしい。なによりうれしい!染めたり、編んだり、いろいろしながら今日まで過ごしてきたけれど、絵を描く時間はなんだか全く別の時間で、ここでしか生成されないなにかが自分がいる。そしてその時、絵が生まれる。これから絵がどうなっていくかはどちらでもいいのかもしれない、描けているということだけで、まず十分すぎるくらいに豊かだ。そう思った。この日の感情はずっと大事にしたい。これから先も、今日の描くことがわたしにある喜びを、この拠り所を、大切にしながら、だからこそ真摯に作りたいと思った。

✴︎2025.10 きらめく、について
日記を書いていると「きらめいていた」という言葉をよく使っていることに気づく。ちなみに、そのときの自分の感覚と、漢字で書いたときの"煌めく"という文字から受ける印象に、ギャップを毎回覚えるんだけど。違う漢字が欲しい。そして最近は、「✴︎」という絵文字にはまっている。軽やかに、小さくきらめいていたいという願いがあるんだと思う。
そうそう、最近旅先の小さなテーブルで始めたコラージュを、友人がみたときに、ある一枚を星々のようだとこぼした。その日から、その一枚は星々になった。このところアクシデントに苛まれていているのけれど、友人とお腹いっぱいに中華を食べて帰宅すると、いいニュースも入ってきた。その夜、ふと壁をみると、コラージュのなかで本当に星々がきらめいてみえた。

大都市のなかで、ちっぽけなわたし。
ちっぽけだから、軽やかにきらめく。
星たちを、そのきらめきを、追いかけたい。


✴︎2025.10 だから、わたしは色を使わないの。
あるとき、友人のアーティストが、わたしは色を使わないのだと教えてくれた。
色は一つの言語で、色には政治的、社会的、民族的な意味が含まれているからだという。たとえば「赤」というと、怖いと感じたり、美味しそうと感じたり、人それぞれによって異なる記号的な意味が想起される。そして想起される意味は人によって違うのに、きっと同じ認識だと誤解したままになることもあるだろう。もっとニュートラルに、もっと捉われずに、作品と出会って欲しい。だから色を使わないのだそうだ。たしかに彼女のが織りなすテキスタイルは、白や生成といった糸の元々の色をいかした作品を制作していて、作品たちからは、どんな場所でもどんなときでも静かにそばにいられる、そんな気持ちが湧いてくる。


"ただ在る"、そのことを肯定したいと捉えれば、自分の真ん中にある「no-reason」という概念とも深く通ずるところがある。こういう意味があるのではないか、こういうことではないか―情報過多な時代だからこそ、そうやって安易に理解できたと思われてしまうと、そこでやりとりは終わってしまう。なにかに小さく閉じ込められ、複数性がはこぼれ落ちるような気がする。そういった違和感に抗いたいという態度に、心底共感をした。

でも同時に、実はとてもびっくりした。おののいたと言ってもいいかもしれない。それで色を言語として捉えたことがなかったことに気がついた。そしてもし色が消えたなら、それは世界が消えてしまうくらいの感情を抱いた。色には自由が、奥行きがあり、そこには無限の組み合わせがある。わたしにとっては、色こそが世界なのかもしれない。色について、もっと真摯に考えていきたいと、その夜に誓ったのでした。
PS.この話を音楽家の友だちに話すと、音楽は言語にもなりえるし、全くそうでなくもある、と言われた。なるほど、色もそうなのかもしれない。そういうものとして色を扱いつづけられたらいいな。

✴︎2025.9 線から点へ
ある日の日記を読み返していたら、”線のような時系列の計りは一旦置いておいて”と書いていた。
それはたとえば年齢のこと。線的に人や時間をみると、とたんに人は評価的になってしまう。上か、下か。長いか、短いか。年長者か、若者か。この街でたくさんの人と出会い、パブでおしゃべりをしていると、この日本人的なまなざしが自分の身体に染み込んでいることを実感するし、そこに窮屈さを抱いていた。評価という一つの軸に縛られると、見えなくなる世界が生まれてしまうからだ。そして驚くほどに、実感をもって、この国では年齢による上下関係という概念がなさそうだ。
では、どうしたら自分の眼差しを広げられるだろうか。”線のような時系列の計り”を横に置いておいたら、そこに現れるのは…点か?そうか。「点」で物事をみれば、これらの軸はちりぢりになって、点と点たちは共存できるのではないか、と思った。ロンドンで生きることは、線から点へと視点をずらしていくレッスン。肌の色も行き交う言葉もさまざまな人々が暮らすこの街で、無数の点と出会って、意味づけしないままに点たちを愛おしく見つめたい。それからやっと点たちからもう一度、わたしの線を紡ぎ出したい。そのときは、勿論あらゆる可能性と複数性とともに。
というわけで、「点」のままに世界を観察することをはじめてみることにした。わたしの世界の観察はいつも植物から始まるので、今回も植物から。この街を散歩していると、よく見かける植物たち、なかでも東京ではなかなか見られない植物たちを集めて、染めてみている。たとえばホースチェスナッツ。モヤットボールみたいな小さなイガイガがついた黄緑色の実で、その殻のなかには、ほとんど栗にそっくりなつやつやの実が入っている。携帯で調べて見ると、その殻でピンクブラウンが染まるらしい。でも染液はほとんど山吹色であれっとなって、それなのに最終的にはサーモンピンクのような色に染まった。
✴︎ 2025.9 儀礼的無関心について(読書から)
タクシー乗り場に長い行列ができていた。たとえばお互いに声をかけ合って同じ方向に行く人が乗り合えば、結果的にはみんなが早くタクシーに乗れる。でも誰も声をかけ合っている様子はなく、列はただ細長く並んでいた。
筆者はつづける。「儀礼的無関心」という言葉が社会学にはあるらしい。見知らぬ人が集まっている状況では、お互いに相手がいないかのようにあえてふるまうことで、それはたとえば満員電車など都市を生きる人々の不可欠な技だと。そこで「声をかける」ということはルールを破ることになる、と。
このエピソードをロンドンの地で読んだとき、なにか非常時があったときには、誰かが声をかけはじめて乗り合う様子が、誰かの掛け声が脳裏に響くほどに一瞬でありありと浮かんできた(その後、しれーっと見て見ぬふりしているところも同時に浮かんだけれど笑)。ここで過ごしていると、街を歩けば洋服がかわいいとかなんとか、髪型がとても好きだとか、知らない他人が本当によく声をかけてくれる。そしてその1分後には他人に戻ってゆくのも心地よい。
なにがこんなに違うのだろう。実のところ、この国はなんだかちょっと日本に似ていて、"Reading the room"という空気を読むことと同じ意味の言葉だってあるそうで、儀礼的無関心はむしろ得意な土地でもあるはずなのだ。
著者は続けて、この「儀礼的無関心」というルールが破られるのは、日常から外れたことが起きたときとだという。そう、そう、この街では否応なくルールが破られてしまうことが多すぎるからなのかもしれない!自転車を走らせれば常にガラスの破片が飛び散っていてパンクし放題だし、バスは突然全員下ろされるし、電車は予定時刻よりも早く出発していなくなっている。毎日、本当に思い通りには進まない。だからこそ儀礼的無関心な日常と、非日常が、あまりにも日常的に繰り返されることに慣れきっていて、そのスイッチがなんだか上手なのかもしれない。
*書籍:宮地尚子『傷を愛せるか 増補新版』,ちくま文庫


✴︎2025.9 儀礼的無関心について、つづき
上の文章を書いてから、だから、日常のあらゆるルールが破られたCOVID-19の間、日本でもやけに息がしやすかったのかあと納得し、ルールを守ることで心地よさを保つ日本という土地も、もう少しばかりスイッチが上手になってもいいのにな、日本でルールが破られてしまうには、どんな条件があるんだろうかと考えを巡らしている。
で、その前にこの国におけるルールが破られてしまう条件をもう少し整理すると、今のところの仮説は、街、人間、そして天候の三つだ。まずはパンクをもたらすような街のコンディション。この街は思ったよりもきれいなんだけど、ちょっとのカオスを含んだままに秩序が保たれている。そして人間とは人種の多様性である。それぞれが立つ文化圏があまりにも違いすぎて、なにが失礼に当たるのかとか、なにもかもが違う。食べてはいけない肉も違えば、土曜日は電子機器を触れない信仰の人たちだって住んでいる。そして常に、電車でも職場でも、隣に座っている人とわたしは、いつも全く違うストーリーと常識を抱えてここにいる(職場で出会ったみんなのストーリーの濃さ…!)。そしてもう一つが天気だ。長くて暗い冬を思えば、わずかな夏の期間の晴天に、冬の久しぶりの晴れ間に、晴れたら、そりゃ公園に行くしかない。その瞬間に敏感に、今を生きること。予定やルールを変更することは、むしろ自分が心地よく生きるための術なのだと思う。

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